一つ前の記事『時間というもの PartⅠ』が長くなりそうだったので分割した後半部になります。
前の記事で『意識時間』と言う部分が書けませんでしたが、これは人間や他の生き物が意識する時間感覚というものが『物理時間』とは必ずしも一致しないだろうと言う事を書くつもりでした。
こんな事を書くきっかけとなったのは、徒然草の「かげろふの云々、蝉の云々」にあります。

さて、このかげろうの当日限りの儚い命というのは、本当に人間が考えるところの「あっという間」なのだろうか? かげろう自身の認識としては、人間同様に長~い一生ではないのだろうか?
CPU回路においてクロック周波数を高くした場合、当初の処理内容と同等の処理を短時間で完了してしまうのに似ているかも。物理時間は短くともその処理内容に変わりはありません。

余談ですが、生物において「近縁種同士だと大型動物ほど寿命が長い」との経験則があるそうですし、また不老不死の、あるいは老体から幼体へと常識とは逆に変異する者もいるらしい。
今回は、『寿命』ではなく『時間の感覚』に関してなので、この寿命についてあれこれ書いていると本来の目的とずれてしまいますが、この『寿命』というのもテーマとしては面白いかも、ですね。

ここらで本題に戻りますが、『意識』というものは、その瞬間瞬間を連続的にサンプリングしたデータが脳に蓄積され、それが時間軸に沿って整理されているように思う。
そのサンプリングされた各データは物理時間とある程度は対応しており、時には時計を確認した場合などはほぼ『意識時間』と『物理時間』は対応していると考えられる。

ここで、人間の一日の成長などの変遷が、例えば、かげろうにおいては一分で行われていたとするならば、かげろうにおいて『物理時間』がたとえ一分であろうとも、その『意識時間』は人間の一日に匹敵するであろうから、到底『儚い命』などとは言えなくなってしまうでしょう。
その生物ごとの『意識時間』が異なるとすれば、案外生物の一生なんて同じような物なのかも。
時間2
この宇宙における『宇宙時間』に比較すれば、人類の歴史なんてその比率として微々たるもの、さらには人の一生なんてそれに輪をかけて『儚いもの』になってしまいます。
「人間の長い一生で・・・」なんて表現、宇宙を司るスーパーバイザーから見れば笑い飛ばされてしまうような短さかも。 それと同様にかげろう君の人生(虫生?)、本人(本虫)たちは案外長いと意識しながら生活しているのかもよ。

ところでここで新たな疑問ですが、時間の流れは『過去』から『未来』へ流れているという事を『当然』『常識』として受け入れていますが、これは本当に当然なのでしょうか?
まあ、常識的に考えればそうなのですが、例えば時間が逆方向に流れていて宇宙規模で言えば、ビッグバンの方向に向かっている、或いは部分的に時間が逆転なんて事はないのだろうか?

先ほどのサンプリングしたデータを時間軸で逆に捉えていた場合、人間は本当は『老い』へ向かっているのではなく『幼児』へ向かっていて、やがては母体の子宮へと帰っていく?
体内の細胞は『分裂』ではなく『融合』へと、また、『物理時間』の『未来』は意識時間においては、『記憶として残らない過去』『過去』は『完全に予測可能な未来』となる。

何だかややこしい話になってしまったが、ほとんど全ての物理法則は時間軸に対して対称なので時間軸を逆方向でもその式は成立しますが、熱力学の第2法則においては「エントロピーの増大(混沌の方向)は時間軸方向」であり、これに関しては例外的に時間軸を逆にしては成り立たない。
しかし、最近の量子力学の分野においては熱力学第2法則さえ逆転する例もあるらしい。

とりあえず、大体において物理時間と意識の時間方向は一致していると考えられているらしい。
しかし、そもそもが意識に対して時間の方向を物理的な時間として定義している方が先なのでは、と思うのですがどうなのでしょう?
そもそも『時間』という概念は、『意識』があるからこそ定義し得るもののような気がしている。