俳句については自分でも良く分かっていないのに、前の記事で勝手なことを書きなぐりました。
それであれば、ついでに『短歌』に関して書いても1個の記事分稼げるのではないだろうか?
これまでに真面目に勉強はしていなくても、古典で習った時に耳に残っていた和歌も数多くある。
また、『百人一首』の中にも味わい・馴染みのある歌がたくさんあります。

それらの中でも、『かきつばた』を織り込んだ誰もが知る有名な『折り句』があります。
らころも つつなれにし ましあれば るばる来ぬる びをしぞ思ふ】作者:在原業平
このおっさん、六歌仙・三十六歌仙のうちの一人にして『稀代のプレイボーイ』だったらしい。
これを習った坊さんで高校の古典の教師、『プレイボーイ』なる表現には違和感ありまくり。

在原業平によるこの和歌は失恋による傷心の旅に友人と出かけ、その旅先で『かきつばた』が綺麗に咲いているのを目にして即興で詠んだものだそうです。
即興で折り句を詠むというテクニックもさるものながら、この繊細な和歌を聞いた友人たちが涙を流したという点においても、その場に相応しい情景・感情を詠んだものなのでしょう。
杜若1
この歌の意味はネット上でも多くのサイトで紹介されていますので、そちらを参照してください。
まあ、れっきとした妻が居るのに他の女性に恋して破れ、失恋の旅に出てきて妻から遥か離れた地において、しみじみと馴染んできた妻を思い出している心情を表現しているのでしょうか。
そんな状況においても『かきつばた』の一文字ずつを句の最初にばらして置くとは流石ですね。

ところで、先ほどの高校の教師であるクソ坊主、嘘かまことか「もう一つの意味がある」と言って説明していたのであるが、そのクソ坊主の口からの出任せであったようにも感じている。
そのもう一つの意味に沿って漢字で書くと、
【唐衣 着つつ慣れにし 褄しあれば 貼る貼る 着濡る 足袋をしぞ 思ふ】となるのだったような。

着慣れた『唐衣』には『褄』(裾の左右両端)という部分があり、この衣は洗濯した後に板に『貼り付けて』形を整えた状態で干す。そして洗濯した後だから当然衣は濡れている
さらに、この衣を着る時には足袋もセットになるのだが、洗濯した状態では衣と足袋は別れ別れになる。衣としてみれば別れさせられた足袋のことを恋しく思う。

こちらの訳は朧げな記憶に、さらに勝手な解釈を付け足しましたのでいい加減な仕上がりです。
しかし、旅先で綺麗に咲いている『かきつばた』を目にして、即興でその語を分解して句の最初にばらして置くというのは現代人にはなかなか真似ができない芸当でしょうね。
ところが、これよりさらに技巧的な『沓冠(くつかぶり)』という技法があるそうです。
杜若2
和歌において、5句それぞれの始めと終りとの1音ずつを続けて折り返して読み、別の歌意を伝えようとする技巧的な折句というジャンルが『沓冠』ですが、例としては、
『続草庵集』巻四の兼好法師の『も涼 覚めの仮  袖も秋 てなき』から⇒『よねたまへせにもほし』(米をくだされ、銭も欲しい)という意味を込めている。

また、それに対する頓阿法師の返句は、『も憂 たく我が背 ては来 ほざりにだ ばし訪ひま』から⇒『よねはなしせにすこし』(米は無い、銭を少し)と言った具合です。
この『5句の始めと終わり1音ずつを・・・』とは、具体的には先ず赤字部分を先頭から順に読み、続けて緑色部分を今度は最後から読むというものです。

この『沓冠』という技法は、相手にダイレクトには言いにくい内容を、歌に詠み込んでオブラートに包んだ状態で伝えるという日本人らしい『奥ゆかしさ』故の『技法』だったのだろうか?
今だったら、「お前の事好きなんだけど、俺と付き合わねぇ?」「はっ!何言ってんだ!お前なんかと付き合うなんてあり得ねぇっ!」。いや、時代の流れを痛感させられるものだ。