今回の台風19号による豪雨被害の報道と共に、58年前の豪雨に遭った時の記憶が蘇ってくる。
当時、小学校低学年でしたが衝撃だったので、トラウマになっているらしくどうしても連想する。
忘れもしない昭和36年10月26日午後~27日にかけての、大分県は国東半島での集中豪雨でした。
もう半世紀以上も前の出来事ですが、ショッキングな出来事は記憶があまりにも鮮明である。

その日は午後2時前後くらいに、担任より「地区毎に集団下校するように」と指示があった。
まだその時点ではそれほどの雨ではなかったが、後の大雨を見越しての『英断』だったと思う。
家に着いたら、まだ夕食時ではないにもかかわらず、母がお結びを握っていた。
夕方が近付くに連れ、雨の降り方はどんどん激しくなって、子供にもその異常さは感じられた。

通常の雨音と異なり、屋根や地面を叩く雨は「ドォーッ」というような攻撃的な音を発していた。
夜になりサイレンが鳴り響き消防団の動きが忙しくなって、親父は消防服を着て出かけて行った。
母は懐中電灯を持って外に出て行ったが、「家の周りに排水用の溝を掘っていた」と言っていた。
布団には入ったものの眠れない。当然ながら停電して真っ暗な中、異常な雨音は容赦なかった。
国東水害
画像は当時のもので西日本新聞さんよりお借りしました

翌朝になると雨は止んでいたか小康状態だったものの、周囲の景色はちょっとずつ変わっていた。
家の裏の斜面が崩れて、家が倒れる程ではないものの、その土砂が家の壁に押し寄せていた。
その日は休みになったと思うが、翌日からは通学することになったと記憶している。
通学途中、狭い川沿いの草に覆われた道を通ってみると、道路の水溜りに『フナ』が泳いでいた。

学校の手前に大きな川があったのですが、コンクリートの橋が見事に流されていた。
その隣に丸太を3,4本横に並べた『仮橋』が架けられていて、それを恐々と渡って通学した。
女の子の中には怖くて四つん這い状態で渡っている子もいた。
鉄橋も綺麗さっぱり流され線路下の土砂も流され、結局鉄道は復旧せずバス路線に変更された。

学校に着くと、校庭の水飲み場のところに30cm前後の大きな『ナマズ』が生きた状態でいた。
降水量は700mm弱だったが、川沿いでは3m近くなったそうで多くの家が流されてしまった。
その地域に住んでいた子は「2階の窓から小便をした」と言っていたが、悲しそうな表情だった。
恐怖』と言うものは例え大昔の事であったとしても、記憶の底に焼き付いてしまうものらしい。